
予告編みたいな空 作詞・作曲:Te2
なりたい自分 分からなくて
やりたい明日 探せなくて
投げやりになって
涙 気づかれたくなくて
そっと空 見上げたら
木立ちの向こう
飛行機が描く 一筋の稜線
いつか見た映画の 予告編みたい
こんなステキな空が どこまでも 広がっていたなんて
そこに私の名前が クレジットされる時が きっと来る
そう いつでも見守ってくれている
構わないでと 強がりばかりで
でも本当は 見ていて欲しくて
素直じゃなくて
何もかも 嫌になって
飛び出したら 眩しい陽射し
雲の切れ間から
幾筋も降り注ぐ 天使の梯子
その中のひとつが 私にも届いた
こんなきれいな空が いつのまにか 広がっていたなんて
いつか私も真ん中で スポットライト浴びる時が きっと来る
そう いつでも見守ってくれている
いつも太陽は 空から同じメッセージで 語りかけている
「大丈夫、きっとできる。そのままでいいんだよ」
こんなステキな空が どこまでも 広がっていたなんて
そこに私の名前が クレジットされる時が きっと来る
そう いつでも見守ってくれている
最近、あるユニットのカラオケ音源の制作を依頼された。
オリジナルではなく既成の曲のコピーだから、たいしたアレンジもしていないのだが、音作りにこだわった結果、完成ほぼ1ヶ月かかってしまった。相変わらず、仕事が遅い・・・。
この間オリジナルの制作は中断していたが、細切れの時間の中でいくつかの曲のアイデアを温めていた。
その中でこの曲は、思いついたら一気に出来たため、結果的に他の曲を追い抜き先に形になってしまった。
今年に入って詩作を復活させたのだが、あえて歌にするにはどんな詩を書くのか、
方針をはっきりさせておこうと思った。
①歌にするテーマを決めて、そこに込めるメッセージをひとつ絞り込む。
②曲のシチュエーションを設定して、そのイメージに沿った世界を表現する。
③歌の世界観を活かすメロディーとサウンド、演奏をつける(逆の場合もあるが)
これまでも経験的にこのやり方で作ってきたが、今後も制作の方向性がブレないように改めて明言してみた。
この詩ができた伏線がいくつかある。
ひとつはmixi/Facebookのつぶやきで、何気なく撮った空の写真にアドリブに近いノリで名付けた「映画の予告編みたいな空」という言葉。これは歌に使えると思った。
しかしこの時は具体的な歌のイメージは無かった。
もうひとつは、前述の方針に沿って、何を歌で表現するのか考えたこと。
何を歌いたいのか。何を表現したいか。
たどり着いたのは、「子供達へのメッセージ」だった。
以前も書いたが、歌にしなくても言いたいことは文章ででも伝えられる。
あえて、メッセージを込めて歌にして伝えたいこと。
それは面と向かってストレートに言えないこと。心のどこかで共感していたい何か。
私には高3の娘がいる。いちおう受験生なのだが、進路がなかなか定まらない。
難しい年代でもあり、話がなかなか噛み合わず、衝突することも度々ある。
しかし、時折見せる瑞々しい感受性が若さを感じさせることもある。
そんなちょっとイラついている高校生目線で書いてみた。
本当の自分の可能性や能力が自分でもわからない年頃。
やりたいことがあっても、うまく表現できない。
もどかしくて、そのくせ多感で傷つきやすく、繊細な感受性。
どこか、自分の若い頃に重ね合わせているところもあるのかもしれない。
実は本人にはこの詩を見せていない。娘をネタにしたことは当分の間は伏せておこう。
mixi/Facebookで公開した時の写真とは別に、東北を旅行した時に偶然撮れた飛行機雲が
この曲のイメージにぴったりはまったので、タイトル画像にしてみた。
肝心のサウンドの方はただいま打ち込みで制作中。Coming soon. 多分・・・。
今回周ってみてあらためて感じたのは、市街部と郊外の復興の差。街中は瓦礫も撤去されているが田舎に行くと、震災直後のような場所が随所に残っていた。もともと過疎地も多い地域だから余計にかもしれない。
女川港を訪れた人はおそらく誰もが目にするであろう倒壊したビル。鉄筋コンクリートの3階建てが根こそぎ横倒しになっている。こんな風になぎ倒されたビルがいくつか無造作に転がっているのだ。どれほど巨大な力がこのビルをなぎ倒しのか、想像すらできない。女川町は、中心部はもとより1キロほど内陸に入った所(標高は30メートルほどだろうか)まで家が建っていない。根こそぎ町がひとつ無くなってしまったのだ。
北上川の河口付近に立つ吉浜小学校。3階建て校舎が波をかぶり、隣接する体育館はかろうじて原型をとどめていた。校舎の時計が地震発生時刻で止まっているのが印象的だ。
南三陸で満開に咲く見事な桜を見つけた。車を止めて撮影していたら、通りがかった年配の女性に声をかけられた。津波で家を流され、すぐ近くにある仮設住宅に1年余り暮らしているのだという。「家も、店も、町も・・・みんな流されてしまって・・・どうしたものかね」訥々とおだやかな口ぶりで話すが、将来に見通しが持てないでいることは明らかだ。幸いにして、この方の親族は無事だったとのこと。どうか身体だけは大切にして、長生きしてもらいたいと切に思う。
街全体が流された女川や南三陸と違い、気仙沼は街中に様々な「残骸」が残っている。道路際に忽然と姿を現す貨物船は、周囲の建物が根こそぎ無くなっている中で、異形を放っている。今回あちらこちらで被災地を見学する人を見かけた(私もその一人だ)が、気仙沼の街中ではガイド(多分地元の人だろう)付きのツアーのような一団も見かけた。不謹慎と思われるかもしれないが、地元の復興支援と活性化の為にも足を運ぶことは決して悪くないと思う。食べ物もおしいし、震災が無ければ、本当にのどかで素敵な所なのだから。
今回の旅行の最後の目的地である陸前高田のシンボルとなっている一本松。背後の建物は海岸に建つユースホステル。今回の震災で思い出したのだが、私は学生時代に自転車でツーリングをした際にこのユースに1泊したことがある。震災後は近づくことさえできない状態となっていた。青春の思い出の地がこのような姿になると、本当に胸が痛む。
夕陽に照らされる気仙沼港のフェリー埠頭付近。きれいに整備されていただろう埠頭の周辺は地盤沈下が激しく、岸壁の復旧も十分進んでいない。
震災後1年が経ち、東北には何回か訪れきた。しかし、いつもスケジュールに余裕が無く、慌ただしく行き来することを繰り返してきたので被災地を回り、自分の目で見てみたいと予てから思っていた。
最初の目的地は塩釜南部に位置する七ヶ浜。昨年宿泊地として訪れた所だ。海岸付近の道路沿いの被害は車から見ていたが、改めて海岸まで降りてみて唖然となった。海岸沿いに建っていたはずの民家はことごとく跡形も無くなっていた。海岸沿いの集落そのものが消えてしまったようだった。
手前味噌ながら弊社のSS。昨年GWに訪れた時には、周囲にまだ瓦礫が山積された中で、旧式の給油機と仮設小屋で営業していた。復興に向けて燃料の安定供給の為にひた向きに頑張っている姿は、1年前にちょっと誇らしく思えたものだった。今は真新しいSSになって車がひっきりなしに立ち寄り繁盛しているようだった。
東松島の海岸線に沿って走るJR仙石線東名駅付近。線路は流され、傾いた電柱が延々と続いている。駅舎も使える状態ではない。元々過疎のこの地域では、鉄道の復旧が難しくなっていると聞く。いつまでこの状態なのだろうか。
昨年GWで炊出しに訪れた石巻渡波地区。当時は瓦礫の山が散在し、家の玄関に車が突っ込んでいるような状況だったが、今は瓦礫も撤去され、家屋の修復もずいぶん進んでいるように見えた。近くの海岸まで行ってみることにした。防風林を抜けて岸壁まで行く。海に一番近付いた場所に廃墟となった幼稚園があった。校舎は津波で無惨な姿となり、園庭は大きく陥没して池のようになり、そこに遊具が埋没していた。再開の目途はたっていないようだ。園児たちは津波が到来するまでに、無事避難できたのだろうか。(その後、幼稚園のことが気になったので確認したら、残っていた園児は全員避難できたが、既に帰宅していた
石巻市内を流れる旧北上川河口の中州付近を、昨年訪れた時に撮った写真。この辺りは市街地で民家も密集しており被害が大きかった地域である。周辺は瓦礫の山で、車が合間をぬうように走っていたが、今は既に瓦礫は綺麗に撤去されている。しかし、河岸は閑散とした風景に変わり、人影も疎らでひっそりとしていた。昨年の方が街に人や車があふれ、何か活気があったように感じられたのだが・・・。
上の写真は川岸から中州に向かって撮ったのだが、瓦礫の向こうに見える楕円形のドームは石ノ森章太郎の漫画館である。昨年は閉鎖されていたが鯉のぼりが掲げられていた。今は瓦礫も撤去され漫画館の周囲は、公園として整備されていた。そして、去年と同様鯉のぼりの姿が・・・こんな時だからこ悠然と泳ぐ鯉のぼりを見上げたいと誰もが思うことだろう。
漫画館の近くで一人の女性に出会った。彼女は近くの川岸に住んでいたが、被災して今は仙台に移り住んでいるとのこと。幸いにして実家は何とか住めるようになったが、今は仙台で仕事に就いているとのこと。彼女と同様、数多くの人たちが震災で生活や人生を変えざるをえなくなっていることだろう。「これからはきっと・・・いいことがありますよ」そう信じたい。



