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   予告編みたいな空   作詞・作曲:Te2

 なりたい自分 分からなくて
 やりたい明日 探せなくて
 投げやりになって

 涙 気づかれたくなくて
 そっと空 見上げたら 
 木立ちの向こう

 飛行機が描く 一筋の稜線
 いつか見た映画の 予告編みたい

 こんなステキな空が どこまでも 広がっていたなんて
 そこに私の名前が クレジットされる時が きっと来る

 そう いつでも見守ってくれている

 構わないでと 強がりばかりで
 でも本当は 見ていて欲しくて
 素直じゃなくて

 何もかも 嫌になって
 飛び出したら 眩しい陽射し
 雲の切れ間から

 幾筋も降り注ぐ 天使の梯子
 その中のひとつが 私にも届いた

 こんなきれいな空が いつのまにか 広がっていたなんて
 いつか私も真ん中で スポットライト浴びる時が きっと来る

 そう いつでも見守ってくれている

 いつも太陽は 空から同じメッセージで 語りかけている
 「大丈夫、きっとできる。そのままでいいんだよ」

 こんなステキな空が どこまでも 広がっていたなんて
 そこに私の名前が クレジットされる時が きっと来る

 そう いつでも見守ってくれている


最近、あるユニットのカラオケ音源の制作を依頼された。
オリジナルではなく既成の曲のコピーだから、たいしたアレンジもしていないのだが、音作りにこだわった結果、完成ほぼ1ヶ月かかってしまった。相変わらず、仕事が遅い・・・。

この間オリジナルの制作は中断していたが、細切れの時間の中でいくつかの曲のアイデアを温めていた。
その中でこの曲は、思いついたら一気に出来たため、結果的に他の曲を追い抜き先に形になってしまった。

今年に入って詩作を復活させたのだが、あえて歌にするにはどんな詩を書くのか、
方針をはっきりさせておこうと思った。
①歌にするテーマを決めて、そこに込めるメッセージをひとつ絞り込む。
②曲のシチュエーションを設定して、そのイメージに沿った世界を表現する。
③歌の世界観を活かすメロディーとサウンド、演奏をつける(逆の場合もあるが)
これまでも経験的にこのやり方で作ってきたが、今後も制作の方向性がブレないように改めて明言してみた。

この詩ができた伏線がいくつかある。
ひとつはmixi/Facebookのつぶやきで、何気なく撮った空の写真にアドリブに近いノリで名付けた「映画の予告編みたいな空」という言葉。これは歌に使えると思った。
しかしこの時は具体的な歌のイメージは無かった。

もうひとつは、前述の方針に沿って、何を歌で表現するのか考えたこと。
何を歌いたいのか。何を表現したいか。
たどり着いたのは、「子供達へのメッセージ」だった。

以前も書いたが、歌にしなくても言いたいことは文章ででも伝えられる。
あえて、メッセージを込めて歌にして伝えたいこと。
それは面と向かってストレートに言えないこと。心のどこかで共感していたい何か。

私には高3の娘がいる。いちおう受験生なのだが、進路がなかなか定まらない。
難しい年代でもあり、話がなかなか噛み合わず、衝突することも度々ある。
しかし、時折見せる瑞々しい感受性が若さを感じさせることもある。

そんなちょっとイラついている高校生目線で書いてみた。
本当の自分の可能性や能力が自分でもわからない年頃。
やりたいことがあっても、うまく表現できない。
もどかしくて、そのくせ多感で傷つきやすく、繊細な感受性。

どこか、自分の若い頃に重ね合わせているところもあるのかもしれない。

実は本人にはこの詩を見せていない。娘をネタにしたことは当分の間は伏せておこう。

mixi/Facebookで公開した時の写真とは別に、東北を旅行した時に偶然撮れた飛行機雲が
この曲のイメージにぴったりはまったので、タイトル画像にしてみた。

肝心のサウンドの方はただいま打ち込みで制作中。Coming soon. 多分・・・。
今回周ってみてあらためて感じたのは、市街部と郊外の復興の差。街中は瓦礫も撤去されているが田舎に行くと、震災直後のような場所が随所に残っていた。もともと過疎地も多い地域だから余計にかもしれない。
石巻河口の入り口付近に自由の女神像が建つ。昨年来た時には像が瓦礫の中に埋もれて気が付かなかった。周囲は元どおりの公園として整備されてはいたものの、下半身が半分無くなってしまった無惨な姿が余計に際立って見える。

女川港を訪れた人はおそらく誰もが目にするであろう倒壊したビル。鉄筋コンクリートの3階建てが根こそぎ横倒しになっている。こんな風になぎ倒されたビルがいくつか無造作に転がっているのだ。どれほど巨大な力がこのビルをなぎ倒しのか、想像すらできない。女川町は、中心部はもとより1キロほど内陸に入った所(標高は30メートルほどだろうか)まで家が建っていない。根こそぎ町がひとつ無くなってしまったのだ。

北上川の河口付近に立つ吉浜小学校。3階建て校舎が波をかぶり、隣接する体育館はかろうじて原型をとどめていた。校舎の時計が地震発生時刻で止まっているのが印象的だ。
たまたま居合わせた家族連れから、この学校の生徒は裏山に避難して全員無事だったと聞き、ほっとする。東京から来たこの一家は子供が通う学校が、この学校の支援をしているので、見に来たそうだ。「始めて来たのですが、実際に見るとものすごいですね」と語っていた。実際に自分の目で見ること。現場に立って感じてみること。そうやって始めて分かってくることはきっとたくさんあると思う。

南三陸で満開に咲く見事な桜を見つけた。車を止めて撮影していたら、通りがかった年配の女性に声をかけられた。津波で家を流され、すぐ近くにある仮設住宅に1年余り暮らしているのだという。「家も、店も、町も・・・みんな流されてしまって・・・どうしたものかね」訥々とおだやかな口ぶりで話すが、将来に見通しが持てないでいることは明らかだ。幸いにして、この方の親族は無事だったとのこと。どうか身体だけは大切にして、長生きしてもらいたいと切に思う。

街全体が流された女川や南三陸と違い、気仙沼は街中に様々な「残骸」が残っている。道路際に忽然と姿を現す貨物船は、周囲の建物が根こそぎ無くなっている中で、異形を放っている。今回あちらこちらで被災地を見学する人を見かけた(私もその一人だ)が、気仙沼の街中ではガイド(多分地元の人だろう)付きのツアーのような一団も見かけた。不謹慎と思われるかもしれないが、地元の復興支援と活性化の為にも足を運ぶことは決して悪くないと思う。食べ物もおしいし、震災が無ければ、本当にのどかで素敵な所なのだから。
今回の旅行の最後の目的地である陸前高田のシンボルとなっている一本松。背後の建物は海岸に建つユースホステル。今回の震災で思い出したのだが、私は学生時代に自転車でツーリングをした際にこのユースに1泊したことがある。震災後は近づくことさえできない状態となっていた。青春の思い出の地がこのような姿になると、本当に胸が痛む。

夕陽に照らされる気仙沼港のフェリー埠頭付近。きれいに整備されていただろう埠頭の周辺は地盤沈下が激しく、岸壁の復旧も十分進んでいない。

オリジナル「碧き彼方に」を作っていた2月頃から、再び東北の地を訪れたいという思いを抱いていた。3日間かけて各地を周ったが、震災後1年経っても打ち捨てられたように残る遺物にやりきれない気持ちを持ったとともに、まだまだ何かしなければという思いを新たにした。旅行の直前に参加したボランティアバスのツアーでも、まだまだやることは多いと感じた。「忘れ去られるのが一番辛い」地元の人がそう言われていたことを思うと、これからも足を運びたいと思う。
震災後1年が経ち、東北には何回か訪れきた。しかし、いつもスケジュールに余裕が無く、慌ただしく行き来することを繰り返してきたので被災地を回り、自分の目で見てみたいと予てから思っていた。
これまで訪れたことの無い場所を見てみたい。そして以前訪れた場所がどう変わっているかを見てみたい。
そんな思いで独り、東北へ。仙台を起点に宮城から岩手に向けて一路沿岸を北上した。



最初の目的地は塩釜南部に位置する七ヶ浜。昨年宿泊地として訪れた所だ。海岸付近の道路沿いの被害は車から見ていたが、改めて海岸まで降りてみて唖然となった。海岸沿いに建っていたはずの民家はことごとく跡形も無くなっていた。海岸沿いの集落そのものが消えてしまったようだった。
この後、陸前高田までの道程で同じような光景を何度も目にすることになるのだが、改めて津波の被害が広範囲に到っていることを感じた。



手前味噌ながら弊社のSS。昨年GWに訪れた時には、周囲にまだ瓦礫が山積された中で、旧式の給油機と仮設小屋で営業していた。復興に向けて燃料の安定供給の為にひた向きに頑張っている姿は、1年前にちょっと誇らしく思えたものだった。今は真新しいSSになって車がひっきりなしに立ち寄り繁盛しているようだった。
しかし、周囲の更地になった民家にはまだ再建の気配はない。




東松島の海岸線に沿って走るJR仙石線東名駅付近。線路は流され、傾いた電柱が延々と続いている。駅舎も使える状態ではない。元々過疎のこの地域では、鉄道の復旧が難しくなっていると聞く。いつまでこの状態なのだろうか。



昨年GWで炊出しに訪れた石巻渡波地区。当時は瓦礫の山が散在し、家の玄関に車が突っ込んでいるような状況だったが、今は瓦礫も撤去され、家屋の修復もずいぶん進んでいるように見えた。近くの海岸まで行ってみることにした。防風林を抜けて岸壁まで行く。海に一番近付いた場所に廃墟となった幼稚園があった。校舎は津波で無惨な姿となり、園庭は大きく陥没して池のようになり、そこに遊具が埋没していた。再開の目途はたっていないようだ。園児たちは津波が到来するまでに、無事避難できたのだろうか。(その後、幼稚園のことが気になったので確認したら、残っていた園児は全員避難できたが、既に帰宅していた3名が津波の犠牲になったと知った。亡くなった園児のご冥福を祈りたい。)
石巻市内を流れる旧北上川河口の中州付近を、昨年訪れた時に撮った写真。この辺りは市街地で民家も密集しており被害が大きかった地域である。周辺は瓦礫の山で、車が合間をぬうように走っていたが、今は既に瓦礫は綺麗に撤去されている。しかし、河岸は閑散とした風景に変わり、人影も疎らでひっそりとしていた。昨年の方が街に人や車があふれ、何か活気があったように感じられたのだが・・・。




上の写真は川岸から中州に向かって撮ったのだが、瓦礫の向こうに見える楕円形のドームは石ノ森章太郎の漫画館である。昨年は閉鎖されていたが鯉のぼりが掲げられていた。今は瓦礫も撤去され漫画館の周囲は、公園として整備されていた。そして、去年と同様鯉のぼりの姿が・・・こんな時だからこ悠然と泳ぐ鯉のぼりを見上げたいと誰もが思うことだろう。





漫画館の近くで一人の女性に出会った。彼女は近くの川岸に住んでいたが、被災して今は仙台に移り住んでいるとのこと。幸いにして実家は何とか住めるようになったが、今は仙台で仕事に就いているとのこと。彼女と同様、数多くの人たちが震災で生活や人生を変えざるをえなくなっていることだろう。「これからはきっと・・・いいことがありますよ」そう信じたい。
河岸の満開の桜が夕刻の陽射しに美しく映えていた。


30代のまだ元気だった頃、「Rosehip!」という名のグループを組んで演奏活動していたことがある。

メンバーは、ヴァイオリンのAkiraとKayo(持ち替えでビオラも演奏していた)、キーボードのSyoko、私Te2がコントラバスとアレンジを担当。
私、こう見えて昔はベースを弾いていたとです。

元をたどれば、ヴァイオリン経験者の二人がクリスマスに演奏したいと持ちかけ、グループを結成。その後、メンバーは少しずつ入れ替わり、楽器も変わったりしたが、数年間にわたり活動を続けていた。

いちおう編成としてはヴァイオリンアンサンブルだから、最初はバッハなんかやろうかなどと言っていたのが、楽しめるならどんなジャンルの音楽でもOKという柔軟な姿勢で、演奏活動を行っていた。

グループ名だが、当時ハーブ栽培に凝っていた私は、「ヴァイオリン=ナチュラル=ハーブ」という安易な発想で、ハーブの名前をいくつか候補に選んで来てメンバーに見せたところ、キーボードのSyokoが、
「ローズヒップっていいんじゃない?お尻に薔薇の刺青があるイメージで」という過激な発言をして、メンバー全員の賛同を得て決定。
今では、ローズヒップが薔薇のつぼみのことだというのもごく一般的になったけど、当時ハーブはまだまだ珍しかったのだ。
HipHopもちょっと意識して(?)、結局グループ名は「Rosehip!」で決定。

グループの為にに私が考えたキャッチコピー「ちょっとお洒落なポップスを、もっと過激にクラシックを」(笑)
クラシックをかしこまって演奏するのではなく、気楽に楽しんでもらい、ポップスは逆におめかししてヴァイオリンの音で少ししっとりと聴いてもらう、まあそんなコンセプト。

ということで、92年に演奏した時のリハーサル録音がひょっこり出てきた。

当時の演奏で私が一番好きだったのは、ジャズのスタンダード「Take Five」。アルトサックスのソロで有名な曲だが、ヴァイオリンでやると実に艶っぽい感じになる。


ところで当時、実現に至らなかった企画がひとつある。

枝ぶりのいい満開の桜の木を1本選び、ライトアップする。
桜の木を「ステージ」に見立てて、その前で演奏するのだ。
その時、この「Take Five」をやりたかったのだ。

狂おしいばかりに咲く満開の桜と、艶っぽいバイオリンによるコラボレーション。
大人の贅沢だと思いませんか(笑)

とってもいい企画だと思っていたので、今だに未練がある。

それでは、ということでバーチャルに夜桜とRosehip!の当時の録音を組み合わせた映像を作ってみた。
幻の企画、大人の饗宴をご堪能下さい。

なんか小さな夢が実現した気分。
いい時代になったものだ・・・。




 去り行く人へ 最後の言葉を探して
 うつむいたまま別れた 昼下がりの道

 いつの世も人はみな  出会いと別れを繰り返し
 ひとひらの花びらに 去りゆく日を想う

 新たに通う道 始めての朝に
 頬を染め通り過ぎゆく ときめき感じて

 いつの世も人はみな  出会いと別れを繰り返し
 ひとひらの花びらに はかなき夢想う

 思い出が風の中を舞い はらはらと散り
 はるけき日の面影に 移ろう時静かに暮れる

 泡沫の夢の後 狂おしく過ぎていく記憶
 思い出はいつの日も 咲き乱れ はかなく散る


毎年、桜の季節になるとオリジナル曲「桜の木の下で」プロモーション活動?に勤しんできた。
この曲ができて既に15年近く経つが、今年は始めて「歌詞」を作ってみた。

もともとこの曲は「Private Seasons」というシリーズで、インストルメンタルのみで作ってきたもの。
Private Seasonsのコンセプトは、一人ひとりが持つ季節ごとの記憶とその中にある思い出を音楽で表現しようという試み。
できるだけ感情移入できるようにあえてインストもので、歌詞を付けてこなかった。

それがここで来て急に歌詞を付けたのは、最近になって詩作を復活させたことと大いに関係がある。
オリジナルとしては数年ぶりに「碧き彼方に」を作詞して、以来詩作にこだわっているからだ。

元々、若い頃から作詞・作曲はやっていたものの、いつの頃からか詩は書かなくなっていた。
「表現したいことは文章で書く」とやや突っ張ったことを言っていた時期もあるが、歳をとるにつれ若い頃のようにラブソングを書くことへの情熱を感じなくなったということもあった。

しかし詩作をやめてからも、密かに「詩的な文章を書きたい」と思いながら抒情的な文章を書く努力をしてきた。(誰からもそんなことは言われたことが無いので、たぶん無駄な努力だったようだが・・・)

このブログをはじめ、様々なジャンルで様々な文章を書き連ねて表現してきた。しかしどうしても文章では表現しきれないこと、割り切れないことが身体の中に蓄積してきている気がしていた。
また、とても文章にできないことも増えてきた。昨年、震災後に被災地に行って聞いた話は、どうしても文章にはできない。しかし、何かの形で表現したい・・・その中で作詞を復活させよう、歌の力で何かを表現しようと思うようになってきたこともきっかけとなった。

昨年の日記にはこう記されていた。

「こんな時にも季節は巡り、今年も桜が満開となった。
 
 艶やかに 儚く
 狂おしく 密やかに

 どうも桜を見ると、気持ちが落ち着かなくなる。
 今年は特にそういう思いが強いのかもしれない。

 狂おしく咲いて儚く散る花に、命を思う。
 そして、この桜を愛でることなく逝ってしまった多くの人のことを思う。 」

一見のどかな風景を歌っているようだが、桜に儚さとあわれを感じ、桜が咲いた、散ったと心穏やかではない日本人ならではの感情といったこともどこかに秘められている。
そしてこの季節、桜からイメージされるのは「出会い」「別れ」そして純日本的な古風な情景。
そんなことを組み合わせて作ってみた。

ところで最近、気が付いたのだが、私の詩はストレートに自分のことを語ったものが少ない。
他人の目線で表現しているのだ。それも、女性の目線で書いているものがなぜか多い。
この「桜の木の下で」の情景も、若い女性をイメージしている。
いい歳こいたオジサンは、この詩の情景にはあてはまらないでしょう。


今から5年ほど前のことになる。

ピアノレッスンに通う友人が、発表会に出演することになった。
場所はクラブ・イクスピアリ!ライブハウスを借り切って、クリスマスに発表会を行うというのだ。
なんて贅沢なクラスだろうなどと思っていたら、その友人は共演者を探しているという。
なんでもビリージョエルの「素顔のままで」を演奏したいのだが、サックス吹きを知らないかと。
私、こう見えてかつてはテナーサックスを吹いていたことがありまして、なんだったら吹こうか、などと、
(クラブ・イクスピアリにつられて)冗談半分に申し出たところ、他にあても無いのでお願いしますとのこと。

ウインド・シンセ(サックスと同じ運指を持つソプラノサックスみたいな形状の電子楽器で、シンセサイザー音源をつなぐと音が出る)が手元に転がっていたので、これを使って吹いてみることにした。

それから1か月。必死の練習を行い、何とか形になってきたかと思う頃、本番の発表会前のプレリハーサルがあった。
友人のクラス内での身内だけの発表会。
私は友人とともに演奏したのだが、カチカチに緊張してしまい、演奏はボロボロだった。

演奏が終わった後、友人のピアノ講師であるM先生(実は、当時通っていたゴスペル教室でピアノを弾いている先生なので、私もその友人も以前からの顔なじみだった)が意気消沈している私のところにやってきてこう言った。

「・・・当日はもっと楽しくやろうよ」

この先生、かなりのテクニックの持ち主であり、演奏のセンスも抜群にいい。
その先生からもっとすごいアドバイスがあるかと思ったが、たったこの一言だけ。
ちょっと拍子抜けした。

しかし、私はこの言葉を聞いてあることに気が付いた。

ガチガチに緊張した状態での演奏、おまけにミストーンだらけ。こんな演奏、聴いてる人も楽しい訳がない。
リラックスして延び延びと楽しそうに演奏している状態を聴いて初めて、聴く人も楽しいと感じるのだ。
聴いてもらう人が楽しいと感じる演奏をしたければ、演奏者が楽しく吹かなければならない。

演奏者が楽しくなるためにはひたすら練習に励み、演奏に余裕を作ること。
当たり前のことだが、そのためにはミスが無い完璧な演奏が大前提になる。
プレリハーサル前にも練習はしていたものの、ひたすら楽譜を追いかけるだけの演奏。
一生懸命やっているようで、実は何とかミスしないで吹くのが精いっぱいの状態だった。
そして、ミスすることを怖がりながら演奏していた。

結局、プレリハーサル以上の練習をひたすら積んで、本番を迎えた。

そして、本番。
友人のピアノとボーカルに、ドラム・ベースそして私のウインドシンセを加えたアンサンブルで、「素顔のままで」がスタート。
2コーラス目が終わったところで、サックスのソロが始まる。

本番での私は驚くほど冷静だった。
多分、ミスはひとつも無かったと思う。
それどころか、少しタメを作ってみたりと、実に延び延びと演奏することができた。
客席のどこに知り合いの誰が座っているということまで観察できるほどの余裕だった。

こうして無事に演奏は終了。
聴きに来ていた知人の反応も決して悪くはなかった。何とか役目を果たせてほっとした。

不安を抱えたままでの自信のない演奏は聴く人にも緊張を強いることになる。
演奏者は本番までひたすら練習に励み、不安な要素を取り除いておかなければ、本番で演奏を楽しむ余裕などできない。
しかし、ミスすることを恐れていても、余裕はできない。
ミスしたっていいと思うくらいの開き直りが、逆に心に余裕を生むのだと分かった。

音楽の練習は味気ない。ひたすら演奏を繰り返し、テクニックをあげるだけだ。
ソロともなると悶々と一人で練習に励まなくてはならない。
私の場合、S先生の一言で練習することへのモチベーションが変わったことが幸いしたのだと思う。
あの時、「ここを直したら・・・」などとアドバイスされていたら、変に意識して吹けなくなっていたかもしれない。

ところで残念なことに録音が残っていない。そして、伝説だけが残った・・・ということにしておこう。


楽しい演奏を聴かせたければ、まず自らが楽しめるコンディション作りをすること。
これは、音楽全てに通じることだろう。

なんて言いながら、最近ゴスペルの演奏に出演したが、結果はボロボロでした。

まだまだ、修行が足らないようだ・・・(涙)


 愛は河だと言う人がいる
 若くて柔らかい芽をのみこんでしまう河だと
 愛は鋭い刃物だという人がいる
 魂から血を奪いとる刃物だと
 愛は飢えだという人がいる
 満たされることのない渇望だと
 私は愛は花だと思う
 そして、その大切な種があなたなのだ

 傷つくことを恐れている心
 そんな心では楽しく踊ることができない
 目覚めることを恐れている夢
 そんな夢ではチャンスをつかめない
 誰も受け入れられない人
 それでは与える喜びを知ることはできない
 そして、死ぬことを恐れている魂
 それでは生きることの意味を学べない

 夜がせつなく寂しくなった時
 そして、道があまりにも長すぎると感じた時
 また、愛は幸運で強い人間にしか
 やってこないと思った時
 思い出してほしい、厳しい冬の
 深い雪の下には
 暖かい太陽の愛を浴びるための種があり
 春には薔薇の花を咲かせるということを…

  "The Rose"
  Lyrics : Amanda McBroom Artist : Bette Midler Translated by Leona

あまりに美しい訳なので、そのまま掲載させてもらった。

なぜこの歌が突然思い出されたのか、実は思い出せない。
この曲の日本語カバー(愛は花、君はその種子)の歌詞を探していたら、偶然この訳に出会った。

久しぶりにこの曲の歌詞を読んで、あらためてその意味を考えてしまった。
とてもポジティブで、それでいて深い味わいのある詩だと思う。


解釈は人それぞれだと思うが、私はこの詩に「愛は求めるのではなく、与え続けるもの」という
メッセージを感じる。

第1節は、愛の様々なとらえ方をあげている。
確かにどれもそうだと思えるが、一面的なとらえ方でしかないと思う。
しかし、愛は「花」であり、その花を咲かせる元となる大切な「種」があなたなのだと思うと、
愛は与えて育むものというイメージが浮かんでくる。
与え続けているうちに、自分にも与えられるものだと。

単に与えるだけではなく、与え続けること、そこにはエネルギーと寛大さが必要となる。
苦しい時、うまくいかない時もある。与え続ける愛が理解されず悶々と苦悩する時もあるだろう。
それでもやがて来る春を信じて与え続けなさい。
暖かい太陽のように降り注ぐ愛が、きっと種に殻を破る力を与えてくれる。

そんなメッセージを感じるのだ。

花となって咲いた愛は、やがてまた周囲の人にも愛を与える存在になるだろう。
だから、あなたは「大切な種」なのだ。

若い頃は、愛=恋愛 でしか考えていなかった。
結婚して、家族ができてくると、今度は愛を語る余裕がなくなっていた。
齢50を過ぎて、やっとこういう大きな愛を受け止める心の余裕ができてきたかと思う。

愛にも様々な形がある。
家族だけではなく、自分を支えてくれている人たち、音楽や仕事を通じた仲間・・・
愛しているとはとても照れくさくて言えないけれど、「愛すべき存在」だと思えばしっくりくるか。
たくさんの愛すべき存在に囲まれて生きる、なんて幸せなことではないか。

自ら求める前に、自分がどれだけ愛すべき存在に根気よく愛を与えているか、
きちんとまっすぐに思いを伝えているか。

愛は傷つくことでさらに強くなり、苦しみを耐えた中から新たな希望の花となって咲く。
もしそうだとすれば、深い悲しみの中から、より強い愛が、希望が生まれてくる。

震災から1年経った3月のこの季節、寒さに耐える桜のつぼみを見て思う。

春はもうすぐそこまで…。

 あなたが眠りにつくのを見るのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
 神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

 あなたがドアを出て行くのを見るのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは あなたを抱きしめて キスをして
 そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

 あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは その一部始終をビデオにとって
 毎日繰り返し見ただろう

 あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど
 最後だとわかっていたなら
 一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
 わたしは 伝えただろう

 たしかにいつも明日はやってくる
 でももしそれがわたしの勘違いで
 今日で全てが終わるのだとしたら、
 わたしは 今日
 どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

 そして私達は 忘れないようにしたい
 若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも
 約束されていないのだということを

 愛する人を抱きしめるのは
 今日が最後になるかもしれないことを
 明日が来るのを待っているなら
 今日でもいいはず

 もし明日がこないとしたら
 あなたは今日を後悔するだろうから
 微笑みや 抱擁や キスをするための
 ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと

 忙しさを理由に
 その人の最後の願いとなってしまったことを
 どうしてしてあげられなかったのかと

 だから 今日 あなたの大切な人たちを
 しっかりと抱きしめよう
 そして その人を愛していること
 いつでも いつまでも大切な存在だと言うことをそっと伝えよう

 「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう
 そうすれば もし明日が来ないとしても
 あなたは今日を後悔しないだろうから

             (ノーマ・コーネット・マレック「最後だとわかっていたなら」)

この詩は、子供を亡くした人が書いたものだ。
尊いものを失って、人は始めてその大切さに気づかされる。


「あの日」以来、私たちはこれまで気が付かなかったことに鋭敏になった。

当たり前だと信じていたことが、当たり前ではなく儚い存在であること。
明日も今日と同じような幸せな日ではないかもしれないこと。
当たり前のように毎日出会う家族や友人が、明日会えなくなるかもしれないこと。

「あの日」以来、私たちは感じるようになった。

どこかにつながっていたいと思う、たくさんの人がいることを。
大切な人を亡くし、心の支えを求めている人がいることを。
そして、その人たちを助けようとする人がいることを。

「あの日」以来、私たちはその尊さに気が付くようになった。

ほんの僅かな力、ほんの小さな呟きでも、集まれば大きな力になることを。
あきらめずに少しずつ前に進むことが、道を切り開いていくことを。
誰かに頼るのではなく、自分で考えて自分で決めて道を切り開いていくことを。

そして、またあの日がやってくる。

明日が来ないとしても後悔しないように、今日をしっかり踏みしめて生きよう。
明日が来ないとしても後悔しないように、毎日しっかり「ありがとう」と伝えよう。

それでもなお、明日が来ると信じていたい。

それは明日が「希望」だから。今日よりも明日をよく生きたいと願うから。


2月末、「碧き彼方に」のレコーディングが終了した。

久しぶりに挑んだ作詞に1か月、その後アレンジに1か月あまり。
これまでに経験した音楽制作の中で、最もきつい作業だった。
悶々とした中で、葛藤しながら、やっとひとつの作品になった。

まず詩が書けない。
自分で選んだとはいえ、重たいテーマだった。

最初に書いた時には「碧いレクイエム」というタイトルを付けていた。
遠くへ逝ってしまった人への思い。震災の鎮魂歌として書いたのだ。
しかし、これでは悲しすぎる。

その時、思い出したのが石巻で聞いた母子の話
子供を亡くしたお母さんに希望を持ってもらえるような歌にしたい。
そこから今の歌詞の原型ができあがった。
しかしそこからが長かった。
一番伝えたいことを表現する言葉をひとつ選ぶために、書き直しを延々と続け、
ようやく1編の詩となった。

その段階で、アレンジ制作をお手伝いしているryouriさんに歌を依頼。
お母さんの気持ちに寄り添うように・・・という私のイメージどおりの歌唱を付けてくれた。

実はひとつ試してみたいことがあった。
何度かryouriさんの歌にアレンジを施しているが、彼女のボーカルにハモりを付けるとどうなるか。
それを、大それたことに自分の声で試してみたくなった。
祈りの声がこだまのように幾重にも響いていく、そんな様子を表現してみたかったのだ。

レコーディングは1時間ほどで終了。
歌にいのちが吹き込まれた瞬間だった。
私の声の出来栄えはともかく、歌っていて本当に気持ちよかった。
終始支えてくれたryouriさんに感謝。

それからミックスダウン、そしてyoutube映像の制作を開始。

写真は、myyさん。千葉県の海辺の町に住む女性カメラマン。
実はryouriさんのお姉さんです。

ryouriさんの「ともしび抱いて」を制作する時に写真を提供していただいていたので、
自分の作品を作る時には絶対お願いしようと決めていた。

「碧き彼方に」は海が大切なモチーフになっている。
本来ならば三陸海岸の紺碧の海の映像を使うべきところだろう。

しかし、私のイメージでは幼子の逝ってしまった彼方の海は、優しくて穏やかな海にしたかった。
myyさんは、地元千葉の海を何枚も撮られている。それを使わせてもらった。

写真は私が選ばせてもらったのだが、少し嬉しい偶然があった。
冒頭の画像は埼玉の曙公園で撮影したもので、とても思い入れのある作品だったと
編集が終わった後で、myyさんが教えてくれた。
myyさん、ありがとうございました。

そして、震災1周年を前にした3月10日、この歌を披露する場を与えられた。
といっても、私たちおゆみ野ゴスペルクワイアのリハーサルが終わった後で、
クワイアメンバーに聴いてもらうだけのことだが。

何か見えない力に導かれるようにして、ひとつの歌が出来上がった。
教会で祈りの歌を捧げることができることに感謝。
そして、たくさんの支えと力がこの歌を世に出してくれたことに感謝。


  「また、会いにいきます。」


 また、会いにいきます。

 待ってくれているあなたの元に
 笑顔の花束を届けに

 また、会いにいきます。

 洒落たものはないけれど
 何を食べてもおいしく感じるから

 また、会いにいきます。

 励ましに行って励まされてしまった
 元気になったよと言いたくて

 また、会いにいきます。

 人の姿はほとんどないけれど
 たまに出会うのはみんな素敵な人たちだから

 また、会いにいきます。

 ここを故郷にしようと決めたからと
 それだけをあなたに伝えたくて

 また、会いにいきます。

 あの日から何もなくなってしまったけれど
 なくしてはいけない大切なものが
 ここにはたくさん たくさんあるから

 また、会いにいきます。

 待っていてください。



碧き彼方に」の制作は、この週末にアレンジとレコーディング、ミックスダウンを終え、完成。
(ボーカルは、アレンジで交流のあるryouriさん。音源を公開中です。是非聴いて下さい

重たいテーマだったこともあり、制作中は辛いプロセスだった。
もう当分、制作はひと休みしようと思っていた矢先のこと。

あんなに作詩に苦しんだのに、まさかこういう時に降りてくるとは。

この詩ができたきっかけは2つある。

ひとつは最近、被災地では自殺をする人が増えているという。
ボランティアで出かける人は帰り際に「さよなら、元気でね」とかではなくて、
「また来るからね」と言って欲しいという話を聞いた。
そうすると、今度彼が(もしくは彼女が)いつ来るから、それまで頑張ろうという気になるというのだ。
悲しいことだけど、人間の心ってそんな折れやすいものかもしれない。

もうひとつの話題は、松本玄太クンのことだ。

彼は、ゴスペルピアニストで、私たちのクワイアのクリスマスコンサートでは常連だった。
とてもゴキゲンなピアノを聞かせてくれる素敵なピアニストだ。

その彼が、何度か被災地を訪れているうちに、陸前高田を第2の故郷にしようと思い立ち、
移住を決意したのだという。(詳しいことは彼のブログ「この街とともに」を読んで下さい)

彼のファンキーな演奏がライブで聴けなくなるのは、とても寂しいことだけど、
きっと、彼の地で素敵なピアノを弾いてくれることだろう。

そんなことを考えているうちに、この詩が浮かんできてしまった。

彼の被災地に向けた熱い思いにエールを込めて送りたい。

タイトル画像は、今は無き陸前高田の一本松。昨年10月、訪れた時にバスの中から撮ったもの。